私たちの知らない「もう一つの相撲」~テレビ中継はない、豊穣なる「相撲」の世界

紆余曲折はあるにせよ、大相撲の人気は時々の流れに乗って隆盛だ。
大相撲はそれぞれの時代に、人々を魅了する力士が登場して土俵を盛り上げてきた。時々の人気力士を語るとき、それぞれの時代が浮かび上がるほど大相撲は日本の文化ともいえる存在である。平成が終わり令和が始まっても、明治から大正、昭和で語られた力士たちの活躍と同じように力強く個性に溢れた強い力士たちの活躍がみられることになるだろう。

その人気は、外国人にも広がりを見せ、本場所の当日売りのチケットの半分以上は外国人観光客が手にしているという。観光産業の一環としての大相撲に大きなインバウンドを期待する意見もある。

しかし、「相撲」とは、私達がテレビなどで目にするプロスポーツとしての「大相撲」だけではない。大相撲とは別な豊穣な相撲の世界があることを知ってもらいたい。

相撲の歴史は実に古い、神代から競技として存在したというのは一般的だが、近代的な競技として確立したといわれるようになってからでも数百年の歴史を刻んでいる。
稽古場での鍛錬はその歴史を受け継いできたもので、一つ一つの稽古でも長い歴史の中で連綿と受け継がれてきたものだ。

ここでは、教育的側面を持つ「アマチュア相撲」と、文化的側面の強い地域の伝統的な「奉納相撲」について紹介する。

市区町村のスポーツ大会での相撲

まずは、「アマチュア相撲」。
多くのアマチュア相撲の競技会は、主に市区町村のスポーツ競技会で開催されることが多い。
幼少年から中高生、一般の部、壮年の部などのクラスで日ごろ鍛えた力と技を競い合う競技会になっている。最近は女子選手の参加も増える傾向があり、選手の多様化が進んでいる。

東京都下では10余りの市区が中心で、それぞれの市区にある地域の相撲道場や相撲倶楽部で鳴らした愛好家たちが集まって大会を構成している。

中でも子どもたちの「わんぱく相撲」が盛んだ。

「わんぱく相撲」は小学生や幼稚園生の参加する競技会で、アマチュア相撲の団体である「日本相撲連盟」の各地の支部や、プロの団体である「大相撲協会」直営の支部などによって行われている。

「わんぱく相撲」を開催することで、地域の小学生への普及を図る。また、成績優秀者の「日本相撲連盟」への加盟を促したり、大相撲の人材育成・発掘の場にでもある。元横綱の貴乃花が「わんぱく相撲」の横綱だったことは知られている。

普段は土俵に縁のない子どもたちも、競技会に参加することで、テレビしか見ることのなかった土俵や廻し、相撲という競技に触れる機会になっている。各地方のアマチュア相撲の牽引車たちが開催する「わんぱく相撲」は参加者3万人を維持している。

東京都府中市の子ども相撲

そんな中、東京の「府中市相撲連盟」では幼稚園の活動の一環として相撲を取り入れている。幼いうちから身体を動かすことを覚えることで運動能力の発達にも役立つのではと考えた幼稚園が近所の相撲道場に呼び掛けて交流が始まったという。

府中市民大会に出場する子どもたち

子どもたちは、それぞれ個性的な廻しを締めて土俵に。この廻しは、母親や幼稚園の先生方がそれぞれ持ち寄った生地をもとに作った簡易的な廻しだ。まだ幼い幼稚園生にとっては着けやすいこと、外しやすいことは子どもたちばかりでなく教員や親御さんにとってもありがたい存在だ。

子ども用の廻し

相撲を取り入れた当初は、幼稚園生向けの子ども用の廻しはなかったという。そこで、服の古着の生地を使って廻しにしているうちに、いろいろと改良が進んだ。木綿の古生地は柔らかく、廻しを掴むにも手に馴染みやすいため、初心者にありがちなただ押すだけの相撲ばかりではなく廻しをとろうとするという。この廻しを通じて相撲への関心がより高まるというのだ。

子ども用の廻しは、取り扱うが楽

さらに東京都の大会としては7月に靖国神社のみたままつりにあわせて、東京都の選手権大会が行われる。また9月には体重別の選手権が行われている。これらの大会を目標に地域のスポーツ大会で実力を養うことになっている。

それぞれの愛好家たちの間で、競技会の情報が共有され、競技会を盛にしている。これらの競技会に向けてそれぞれの道場や相撲倶楽部で日々の稽古に明け暮れているのだ。

府中市民大会の土俵

地域の奉納相撲

「大相撲」を中心に、前記の「アマチュア相撲」も含めて、「相撲」が現代のスポーツ競技として行われているのに対して、それぞれの地域に深く根差した文化として継続されているのが「奉納相撲」だ。
ここでは、首都圏に残るいくつかの「奉納相撲」の現状を伝えることで、スポーツとは異なる相撲の文化的な面を知ってもらいたい。

東京都府中市、大國魂神社・八朔相撲祭

首都圏近郊の奉納相撲の中でも長い歴史を誇っているのが、東京都府中市で催される大國魂神社・八朔相撲祭だ。毎年夏の真っ盛り8月1日に開催されている。
由来は豊臣秀吉の北条征伐の後、関東への国替えが決まった徳川家康。その江戸入府の折に立ち寄った大國魂神社で地元の農民が家康を歓迎するために催した奉納相撲が始まりといわれている。

大國魂神社八朔相撲大会(奉納相撲)

時は天正18年(1590)江戸城入城のときといわれている。以来毎年、台風などの天災にあっても、江戸幕府崩壊のどさくさでも、関東大震災の後、第二次世界大戦の敗戦の年でさえも開催され続けてきたという。
天災に及んでは大國魂神社の境内の建物の中で取り組みを行い、周辺の村々の五穀豊穣と天下泰平を祈った。開催回数は1590年を第一回に西暦の計算がぴたり合うのが関係者の何よりの自慢なのだ。

相撲の盛んな府中市では周辺の相撲道場や相撲倶楽部で活躍する少年も多く、長じて大相撲に入門するものも多かった。

奉納相撲には周辺の企業から協賛が集まり、参加者に懸賞として分けられる。一般の競技や団体戦も白熱するが、女子相撲も盛んで、相撲倶楽部で活躍するお母さんたちも一緒に土俵に上げって力と技を競っている。

土俵に上がるのが初めてで、廻しを持っていない人たちには廻しを貸し出すこともあり、厳しい競技の中にも和やかな部分も残されている。さながらお祭りの一環として大人も子供も、家族全体で楽しめる相撲大会になっている。奉納相撲という点では競技としての厳しさだけではなくみんなで楽しめる面を残している。日本人が古くからどう相撲に親しんできたか偲ばせる相撲大会なのである。

埼玉県秩父市、千手観音信願相撲

埼玉県秩父市上田野にある清雲寺は行基作と伝わる千手観音が安置される古刹。寺に住職はいないが、地域の住人たちによって守られ毎年8月16日に信願相撲が行われている。
由来は文政年間(1818年から)上田野村出身力士「隅ノ江津雲」が千手観音に願掛けしたところ、たちまち番付を駆け上り前頭の中ほどにまでなったという。このころは「国相撲の儀」というものがあって、幕の内力士は郷里に帰って出世披露をすることが習わしだった。

秩父市の奉納相撲、「千手観音信頼相撲」の土俵

この出世披露が隅ノ江津雲の信願をかなえたお礼の奉納相撲とされ、「千手観音信願相撲」が始まったとされている。
観音堂の信願相撲には当時の隅ノ江津雲の所属部屋だった花籠部屋から辻相撲免許が与えられ、現在でも秩父市相撲連盟理事長として活躍する千手観音奉納相撲世話人長谷川公二さん宅に残されている。ちなみに世話人職は代々世襲されている。

相撲「免許証」

身体健全、無病息災の信願のために集められた懸賞は運営費や参加力士に振る舞われる酒や飯に使われた。清雲寺は相撲四八手の図(トップ画像の写真)や秩父郡周辺の力士番付などが残されており、どれほど盛んであったかを偲ばせている。

参加力士たちは酒や飯が飲み放題食べ放題で、地元で知られた力自慢から飲食目当ての素人、遠くから遠征してきた有力力士など思い思いの四股名を名乗って土俵に上がった。

当時は農閑期のこの時期、地元の名士として力を競った若者たちの晴れの舞台でもあったという。活躍した力士たちにとっては将来の嫁探しの場でもあったという。

相撲が地域の文化や生活にも深く入り込んでいたことをしみじみと感じさせる言い伝えである。このような辻相撲は秩父地方ばかりではなく、関東地方一円にたくさんあり、それぞれの相撲大会に巡業しながら参加して懸賞を稼いだりする猛者もいたという。

千手観音信頼相撲会場

「千手観音信願相撲」の最大の特徴は二番勝負であることだろう。「信願相撲」とは、懸賞とともにだけに人々の願いをかなえるのが最大の目的なのだ。勝負にこだわることなく多くの人々の願いをかなえる。そのためには勝負は互に分け合うことが必要だという。最初の一番は真剣勝負。しかし、第二番は相手に勝ちを譲る。これにより互いの願いをかなえ合うのが千手観音信願相撲の最大の特徴であろう。

千手観音信願相撲は「行司」職の世襲も行われている。相撲を興行するだけでなく、それを裁く行司職も世襲されている。どれほど地域から大事にされたか分かるだろう。

千葉県船橋市、船橋大神宮奉納相撲

千葉県船橋市にある船橋大神宮では毎年10月20日に奉納相撲が開催されている。船橋大神宮の奉納相撲は古くから船橋大神宮の「けんか相撲」といわれ激しい取り組みが周辺の相撲大会でも有名だったという。

船橋大神宮社屋

やはり江戸時代の始め幕府の大御所徳川家康に地元の人々が周辺の元気な漁師の子どもたちが相撲で競う様子を見せたという。相撲好きだった家康はたいそうよろこんだという。船橋大神宮の奉納相撲もこれを起源にしているという。以来、江戸時代を通じて徳川家の恩恵の下、大変な賑わいを見せるようになった。

弓取り式

船橋の「けんか相撲」とまで言われるようになったのは勝負の激しさは当然として、元々漁師町なので気の荒い人が多かったという。その気の荒さが勝負はもちろん、勝負の采配に見ている観客の方が納得できず、会場にひかれたござや筵ばかりか、石ころや泥まで投げ合う始末だった。

元々漁師町なので手持ちの手ぬぐいや半纏でござでもむしろでも石ころや泥さえうまくよけるので、会場は一層荒れた。そんな活気にあふれた様子から、相撲の一番より観客の方がけんか腰だったためそんな言われ方をするようになった。

観客まで血気盛んな相撲大会であったため、一番を裁く行司は大相撲の部屋から派遣してもらい、観客があれないように厳正にさばいた。それでもなかなか会場は収まらなかったようで、会場に4本の竹を切って立てかけ、会場がもめると開催側が竹をもって諫めに入ったというほどだった。

年に一度の奉納相撲はそれこそお祭りのようで、来場者にも赤飯と甘酒が食べ放題飲み放題だった。そのため、参加者や観客ばかりではなく地元の人々も心待ちにしたお祭りのような相撲大会だったという。

赤飯と甘酒が振る舞われる

けんか相撲の風情は現代でも引き継がれている。できるだけ多くの参加者に懸賞をいきわたらせるための負け残り勝負や団体戦。ほかにも飛びつきでの勝ち抜き戦もあって競技会の緊張を残しつつ、楽しめる相撲大会になっている。

さらに、地元の愛好家たちによる相撲甚句の披露。競技終了後には弓取り式、土俵祭りなど、古くから伝わる相撲の伝統を色濃く残した次第も多い。

相撲甚句の披露

八幡講

奉納相撲の開催には神社仏閣とそれを支える地域の人たちのつながりが存在する。そこには「お祭り」のように相撲を楽しんだ人々の姿が浮かび上がる。まだ世の中に娯楽の少なかったころ、相撲がどれほど華やかでだれでも参加できる敷居の低い競技であったのか改めて感じることができた。

このような相撲の興行は地域の人々が団結して作り上げた「講」があったようだ。これらの講は武門の神様として知られる八幡様からとって「八幡講」と呼ばれ、各地に存在していた。

江戸時代から明治、大正、昭和の初期、ラジオで大相撲放送が始まるころでもあちこちで行われていたという記録に出会うことができた。

地方の興行で名を馳せた力士たちはそれぞれの地域で名士としてまるで大相撲の親方のように若い力士を指導したり、興行を取り仕切ったり、時には才能のある若者を大相撲に勧めたりと地方の顔役として活躍していたという。
戦争を挟んで大相撲人気が定着するころ、テレビ中継で大相撲がみられるようになるころにはいつのまにか彼らは姿を消していった。資料によるとこれらの八幡講は現在の市区町村以上の数存在していた。

八幡講がそれぞれに相撲を通じて、地域の活性と交流を担っていたのだろう。船橋の大宮大神宮で昭和初期の八幡講の石碑を目にすることができた。

今はもう石碑に刻まれるだけになってしまった八幡講はいったい何に姿を変えたのだろう。ただ消えてしまっただけではないはずだと私は思っている。

身近過ぎるからこそ忘れてしまうものに目を向けて

「相撲」は、国技といわれているプロの大相撲だけを指しているわけではない。古より、私たちの生活に密着した身近な存在としての「相撲」があったし、今でもある。
それは競技というだけではなく、お祭り的な要素、地域交流や余暇の楽しみ、今の私たちには想像もできないような私たち先祖の日常に溶け込んだ、生活や文化の一端を担っていたような「相撲」。「相撲」は日本人の生活様式そのものでもあったのではないか。

農耕を生業とする私たちの先祖にとって、土俵は実に身近なものだった。田圃の土を踏み固め、稲の藁をつとにしてまとめ、組み上げれば草相撲の土俵は数時間の作業で出来上がる。そして相撲を取り終えればそのまま取り壊し、すぐ元の田圃に戻す。千手観音信願相撲や船橋大神宮の土俵は、今でも稲藁で作られている。毎年の開催のために土俵を作り直している。

私(筆者)の故郷近くで、八幡講により相撲の興行が開催されていたという八幡神社に足を運んだ。少子高齢化で子どもたちの歓声も減った小学校の隣の八幡神社にそれと思しき小高い広場があった。15尺直径4.55メートルの円を書けばそこはすぐに土俵になりそうな場所だった。

かつて相撲は、私たちには余りにも身近過ぎた。「ありふれたもの」であったがゆえに、私たちの生活の変化とともに、いつの間にか遠い存在になってしまったことすら忘れてた。そんな存在なのかもしれない。こうした「いつのまにか忘れてしまった」ものは、相撲に限らず、私たちの周りにはいくらでもあるだろう。そんなものをときに思い出すことは、人間にとって重要ではないか。そう思いながら私は今日も土俵に向かう。


取材・執筆・撮影:腰塚雄壽(こしずか ゆうじ)
学習塾で国語を担当、主に中学受験を指導。のち業界誌記者。フリーとなって教育やサイエンスを中心に活躍中。編著に『国立感染症研究所は安全か』(緑風出版)、『今そこに迫る地球寒冷化人類の危機』(KKベストセラーズ)など。相撲だけでなく、野球、合気道、登山、ツーリングなどスポーツを通じた活動も進める。
相撲での実績は、「府中市民大会壮年の部:優勝」、「東京都大会壮年の部:3位入賞」、「香港上海倶楽部体重別選手権:中量級3位入賞、同団体戦:3位入賞」など。

【取材後記】
大相撲界に入門するための新弟子検査は、毎場所前に行われる。大相撲界に入門するにはそれぞれの部屋に所属して、場所前に行われる新弟子検査に合格しなければいけない。現在の新弟子検査は23歳未満で身長167㎝以上、体重は67㎏以上だ。新弟子検査は本場所前に行われ、これに合格すれば前相撲を経て力士として番付に記載される。

2018年(平成30年)に大相撲の歴史に刻まれる大きな事件が起こった。名古屋場所と九州場所の入門者数が「ゼロ」であったのだ。

記録から筆者が試算する限り、入門者「ゼロ」は過去にわずかに1回だけ。一度は若手力士への暴行致死事件が明るみに出た直後の2007年(平成19)の7月場所直後だ。

2018(平成30)年を通してみても、大相撲界への入門者数は69人。若花田、貴花田の人気で相撲人気が絶頂であったといわれた1992(平成4)年、93(平成5)年がそれぞれ223名、210名であったのに比べて3分の1以下だ。

入門者が減っているのだから、力士の数も減っている。
昭和の末から平成にかけての力士数を調べてみると、昭和の終わりころ700人台後半から800人台前半の力士数で前後していたものが、若貴人気の平成以降徐々に増加していく。

最も多い時期に900人台に上昇したが、その後徐々に減少傾向が生まれ、最も入門者数が少なかった2012(平成24)年以降、2014(平成26)年11月場所の618人まで減っていた。この数は、最も力士数の多かった時期の3分の2である。
力士の数が減ることで、現在の大相撲界の力士の「質」が以前よりも落ちているのではないかと推測する向きもある。

本来、プロの「大相撲」と「その他の相撲」に区別する意味はない。「アマチュア相撲」や「奉納相撲」などによって、子どもたちや各地域で相撲の裾野が浸透すればするほど、「大相撲」の活況につながるはずだ。「相撲」は、私達の生活に連綿と根ざしてきた相撲文化がこれからも身近な存在であってほしい。
(腰塚雄壽 )


編集:石原智

掲載:2019年4月

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