「女の子」憧れのイラスト、50年以上も第一線で
田村セツコさんは、女性イラストレーターの草分けとして、1950年代から第一線で活躍してきた。「りぼん」「なかよし」などの少女マンガ誌や、サンリオの「いちご新聞」での長期連載など、多くの女性に愛され続けてきた。最近はメディアで「kawaii(カワイイ)」文化の元祖などと言われて、若い女性からも熱いラブコールが送られている。
日本経済の成長ととともに次々に登場した少女雑誌で、元気で明るくてお茶目なイラストが、女の子たちを励ましてくれた。田村さんご自身、カワイイ少女と「おばあさん」が同居しているような不思議な魅力がある人。
田村セツコ/画家、イラストレーター、エッセイスト
1938年、東京都生まれ。高校卒業後、銀行の秘書室に勤務。1年で退職後、童画家・松本かつぢ氏の紹介でイラストレーターの道に。1950年代後半のデビュー後、60年代には『りぼん』『なかよし』『マーガレット』『少女クラブ』など少女誌の表紙やイラストを多数手掛け、女性イラストレーターのパイオニアとして一躍人気作家に。
「カワイイ」が好きな若い女性の憧れであり、ストーリーのある漫画や挿絵ではなく、文章とイラストを組み合わせた独自のセツコワールドを築き上げた。70年代は便箋や小物などのセツコグッズで一世を風靡した。
サンリオが発行している「いちご新聞」では、75年の創刊から連載エッセイを継続中。『おちゃめな生活』(河出書房新社)、『カワイイおばあさんの「ひらめきノート」』(洋泉社)、『おしゃれなおばあさんになる本』(興陽館)など著書多数。池袋コミュニティ・カレッジでは、“絵日記を描いてハッピーに”をテーマに講師を務めている。年に数回、ゲストを招いたトークショー「ようこそ!セツコの部屋へ」も開催。オフィシャルブログ「ハッピーセツコ」
傘寿の誕生日に
立春の2月4日、個展が開かれている東京・新宿のジャズスポット「J」で、忙しく店内を動き回る田村さんにインタビュー。個展のテーマは「ハッピーライフ」。田村さんの作品だけでなく、講師を務めているカルチャーセンターの生徒の作品も展示されている。この日は田村さんの誕生日パーティも兼ねていて、店内は大入り満員の賑わい。
筆者はセツコさんとは十数年来の知人でもある。とはいえ、仕事としてしっかりとしたインタビューをするのは今回が初めて。その間柄もあり失礼ながら「えーと、今日がお誕生日ということは……」と口火を切ると、セツコさんに「何が言いたいのよ」と笑みを浮かべながら睨み付けられた。歳を聞かれると、いつも「27から100歳の間だと思います」と答える。
「なんて読むのかしら、傘の字に……」。いわゆる傘寿(さんじゅ=80歳)である。今も現役のイラストレーター&エッセイスト。セツコさんは、スカート姿の少女のイラストで有名だが、エッセイストとしても多くの本を出している。傘寿の誕生日を迎えた今ももちろん現役で、本業の絵に加えエッセーを執筆するなど多忙な日々を過ごしている。
2012年に初期の作品から最新作までをまとめた『田村セツコ─HAPPYをつむぐイラストレーター』(河出書房新社)を出版。同年10月に、東京・本郷の弥生美術館で開かれた「田村セツコ展」がメディアに注目され、「カワイイ」系文化の元祖として話題になった。若い女性たちが田村セツコを「再発見」した 。
元々のファンだけでなく、若い層からの人気も広がったことで数年前から毎年のようにエッセー集を出版している。一番最近の本は『おしゃれなおばあさんになる本』(興陽館)。「おばあさんというタイトルはどうなのかしら」と本人は苦笑。編集者が付けたタイトルに口を出すことはないが、老人扱いには少し不満。
絵を描くことと文章を書くことは、まったく別の仕事だが、絵を描く人は物事の本質を捉えることに長けているからだろう。「不思議なんだけど」と首を傾げながら、「最近エッセーの依頼が多いわね」と話す。サンリオの『いちご新聞』で連載しているイラストとエッセーの「HAPPYおばさんのおしゃべりCAFE」は、1975年(昭和50年)の創刊時から現在も続いている。
“紙と鉛筆があればご機嫌な子供時代
1938年(昭和13年)に東京・目黒で生まれる。妹2人に弟1人の4人兄弟の長女。父は警視庁の警察官。賑やかで「みんなでコタツに入ってラジオドラマを聞いたり、停電になったら歌を歌ったりして」明るく笑い声の絶えない家庭だった。
女の子ならばだれしも美少女の漫画の登場人物に憧れる。セツコさんも少女雑誌を読みふけったり、漫画を真似してお絵描きをする普通の少女の一人だった。「紙と鉛筆があればご機嫌という子供だった」が、普通の女の子と違うところは、それを仕事にしようと思い続けたことだ。
少女雑誌に「作家の先生にお便りを書きましょう」というページがあった。一番好きな作家が松本かつぢだった。松本かつぢは『くるくるクルミちゃん』という漫画で有名になった童画家。少女雑誌に載っていた作家の住所に「どうすればそういうお仕事に就けるんですか」と往復ハガキで手紙を出した。
当時は作家の住所が雑誌に掲載される牧歌的な時代。「個人情報保護」の概念がなかったおかげで、50年以上第一線で活躍するイラストレーターを生み出した。
この著名作家の住所にそれまで描き貯めた絵を送ったところ、思いがけず「一度訪ねていらっしゃい」という返事がきた。
「まさか素人の女の子に有名なプロの先生からお返事が来るなんて思ってもみなかったから、もうビックリ。それは私にとってものすごい大事件でした」
才能が認められそのまま弟子入り。もちろんすぐにプロの画家になれるわけではない。子供の時から絵を描くのは好きだったが、プロの絵描きさんになるなんて「夢のまた夢」と思っていた。高校を出て超難関の入社試験を突破し安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)に就職。当時高卒の女子行員の多くが配属されるテラー(窓口で札束を数える仕事)ではなく、秘書課に配属された。
「重役の方にお客さんが来たら名刺をお盆の上にいただいて、応接室までご案内するのが仕事でした。お金の計算はいまでも大の苦手です」と笑う。
今のセツコさんからは想像がつかないが、東京丸の内のオフィス街に通勤する日々が始まった。
銀行重役秘書を辞め、イラストレーターの道へ
秘書課といえば当時は働く女性の憧れの仕事であり、社内でも特別扱いされた。上司や同僚にも恵まれ、職場に不満はなかったが、悶々とした日々が続いた。絵の世界を諦めきれなかった。師匠の松本かつぢの元での修行は銀行に入ってからも続いていた。師匠からも認められ、担当編集者を紹介してもらえるようになった。勤めが終わり家に帰り、出版社から依頼される仕事で絵を描けるようになった。
忙しくビジネスマンが行き交う丸の内のオフィス街。社会人になって一年目のある日、いつものように昼休みに屋上で休憩をしているとき、ふとビルの下を見ると路上生活者とおぼしきオジサンが、一人で悠然と歩いていた。
「うらやましいと思ったんです。自由そうに見えたんでしょうね。職場に不満はなかったんだけど、何となく今一番欲しいのは自由かなって。自分でも思いがけず、辞める決心をしちゃったの。どんなに苦労してもお金が入ってこなくても、かつぢ先生のようになれなくても、絵を描く仕事をしたい、自由業に就きたいと思っちゃったんです。生意気にね」
小さなカット(挿絵)を描く仕事ではあったが出版社からの依頼は絶えなかった。昼休みに丸の内の会社を抜け出し、神保町の出版社へ原稿を届ける日々。駆け足で往復すれば休憩時間内に職場に戻れる。でも昼食の時間はない。「あの娘は昼休みに慌ててどこに行ってるんだろう?」という声も社内に出始めた。
出版社から受け取るのは手間賃程度の謝礼とはいえ、当時の銀行で副業が認められていたはずもない。二足の草鞋に後ろめたさを感じ、「どちらか一本に絞るべきでは」との思いもあった。
銀行の秘書課という人もうらやむ職場を1年で投げ出した。少女時代からの夢だった「絵を描くことを仕事にしたい」という思いを断ち切れなかった。
「絵と銀行のお仕事が両立できなくなって、かつぢ先生に相談をしたんです。『あのー、勤めを辞めて絵だけで大丈夫でしょうか』と。先生は、何て仰ったと思いますか?」
こうした場合、「絵で食っていくのは大変だよ、銀行の仕事を続けなさい」というのが常識的な反応だろう。
「そのお答えがすごく気に入っていて、よく覚えています。先生はきっぱりと仰いました。『そんなこと、だれにも分からないよ』って。それでわかりましたと、勤めを辞めた 」
このとき雷に打たれたような衝撃を受けた。うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。それはプロとして名声を得ている松本先生にだってわからない。すべては自分の覚悟と努力次第なのだ。答えは自分の中にしかない。プロを目指すのであれば、決断と覚悟が必要なのだということを、二十歳になるかならないかのセツコさんに悟らせようとしたのだろう。このときの言葉がいまでも心の中で大きな柱となっている。
退職願を出したが、銀行に強く慰留され、当然、両親にも大反対された。
「親の前で正座してね。『絶対に後悔しません、泣き言は吐きません、経済的な負担はかけません』って三つの誓いを立てたの。だから銀行を辞めることを許してくださいってね」
丸の内の銀行にいれば縁談には困らないし給料もは安定している。親としては心配するのが当然だった。
晴れて念願のイラストレーターになった。しかし、ぽっと出の新人にすぐに大きな仕事依頼がくるほど世の中甘くはない。師匠の松本かつぢに紹介してもらった編集者のツテを頼りに、雑誌の余白を埋めるための小さな挿絵など細かな仕事を続けた。田村セツコの署名が載るわけではない。時間をもてあますフリーターのような日々を過ごしていた。
といってもブラブラしていたわけではない。街の絵画塾でデッサンを勉強したり、有名な洋画家・猪熊弦一郎のアトリエにも通って指導を受けた。
「自分を守ってくれる組織から離れて初めて一人歩きを始めたときの、あの心細さは一生忘れないわね」と振り返る。
仕事を楽しむ――助けられた一言
少女雑誌の編集部に出入りしてご用聞きの毎日。一生懸命描いた作品がボツになることも度々。
お金にならない原稿を一生懸命徹夜で描いている娘に呆れ、超リアリストの母は、「何のためにそんなことやってんの、浮き世のバカは起きて働くっていうけどさ」。
「母親が娘にそんなこと言わないで欲しいんだけど」と思ったが、親の前で三つの誓いを立ててフリーになった以上弱音を吐くことはできなかった。
「家に帰ると遠慮のない母が、昨日徹夜で描いたのはどうなったのと聞くから、うん、すごい褒められたよなんて嘘ついてね。実際にはボツになったりしたことはしょっちゅう。でも絵を描くのがすごい好きだったから、徹夜で描いても全然苦じゃなかった」
とは言うものの、仕事がなく街をさまよい歩く毎日に弱気になることもあった。
「バスの窓に映った自分の顔を見て、『わー、この娘ったら気の毒だなー、なんとかしてあげないとかわいそう』って思っちゃったのよ。何で銀行を辞めちゃったのかな、それまで勤めていた職場の前へ行ってビルの窓を見上げて電気がついてると、だれだれさんもみんなここにいるんだなと思っちゃって」と涙ぐんだ。なんのことはない、本人が少女漫画のヒロインみたいなものだった。
2年後に転機が訪れた。ある日、講談社の雑誌「少女クラブ」の編集部へ行くと、いつも持ち歩いているスケッチブックが当時の伊藤俊郎編集長の目に留まった。
伊藤編集長はセツコさんに、「スケッチブックだとのびのびと描けるんですね」と声をかけた。仕事として受け取っているセツコさんの挿絵には緊張感や萎縮があるのだと言う。本人にも思い当たるフシがあった。気楽にスケッチブックを広げている時の開放感とイキイキとした自分に。
「ウチの雑誌をスケッチブックだと思って描いてごらん」との助言を受けた。肩の力が抜けた。それから気が楽になり、うまく描けるようになった。
ピンチヒッターで人気者に
飛躍するきっかけとなったのは、突然舞い込んだピンチヒッターの仕事だった。「少女クラブ」増刊号にユーモア小説の挿し絵を描く予定だった挿絵画家が急病で描けなくなり、急遽セツコさんにお鉢が回ってきたのだ。明日の朝10時までに描いてほしいという注文。時間は少ない。
「編集長から、『これに挿絵を描ける?』とどっさり原稿を渡された」
少女が主人公の小説。徹夜で描き下ろしたもの以外にも、いままで書きためていたのも含めて、たくさん持っていった。かわいい女の子がウィンクしたり、遊んでいたりする絵。
「コミカルな明るい女の子の絵が好きだし一番描きたかったから、私にピッタリのお仕事で、もう嬉しくてね。締め切りに間に合わせるために徹夜で描いて次の日に持っていったら、いいも悪いもなく、間に合ってよかったとオーケーをいただいた」
セツコさんが本当に描きたかったという絵を、出版業界は見逃さなかった。雑誌が発売された途端に、いくつもの出版社から「うちの雑誌にもこういうタッチで描いてほしい」と、「あのような感じでお願いします」と、仕事の依頼がくるようになった。
この代打の仕事が、1960年代以降「少女文化」の一つの流れの中心に居続けている「田村セツコ」が飛躍するきっかけとなった。運もある。しかし、チャンスを生かせたのは、セツコさんが夢をあきらめずに、絵画学校にも通って画力を磨き、売れるかわからない作品を書き溜めておいたからだ。
いまさらながらだが、田村セツコは「すごい人」だ。なりたい人はいくらでもいる世界。毎年新人が生まれ消えていく。技術はもちろん、センスやひらめきが要求される世界で50年以上も現役の第一線で活躍している。
そんな「すご過ぎる」本人はというと、「あの先生にはお気の毒だったな」と、病で倒れた挿絵画家を今でも気遣っている。もう半世紀も前のことなのに。
人はいつでも一人、だから一人で生きる女性を励ましたい
絵の世界で名を成した人には、文章を書かせても一流ということがある。イラストレーターの田村セツコさんもそんな一人。画家は独特の観察眼があり、物事の本質を捉えることに長けているからだろう。
「あたしにとって絵と文は分けられるものじゃないの。未完成なところを補い合っている。絵を補うために文章を書いて、文を補うために絵を付ける。絵と文が助け合っている、私の場合は」
その文才が開花したのが、2013年に出版された『おちゃめな老後』(WAVE出版)。セツコさんが自分の母親と妹のダブル介護を明るく乗り越え、イラストレーターとして活躍する日常生活の断片を鮮やかに切り取ったエッセー集。以来出版社からエッセーの注文が殺到するようになった。直近では、2018年2月に『おしゃれなおばあさんになる本』(興陽館)を出版。次の企画も進行中だ。
「イラストが売れ始めた頃から、イラストの女の子が独り言を話したり、おしゃべりをしたり、絵だけじゃなく文章も書いてくれという依頼が多いのね。絵と文が渾然一体となった仕事がだんだん増えてきた。そういうのが雑誌で受けると、他の雑誌も真似して、うちでもお願いしますと」
これまでの人生を振り返って、大波小波いろいろあったと思いますがというこちらの質問に、こんな答えが返ってきた。
「あたしね、早く一人前のおばあさんになりたかったの」
セツコさんは、ご自身が描くキャラクターのように、明るく元気でお茶目な女の子がそのまま歳を重ねたような女性ではある。
書籍のタイトルに「おばあさん」と付けられるのを嫌がるのはわかる。それでは、「おばあさんになりたかった」とは?
「途中のめんどうくさそうな修業はすっ飛ばしてね、一人前にはほど遠いけど、もうなっちゃいました」といたずらっぽく笑った。
少女だけでなく、「おばあさん」の日常を描くイラストレーター&エッセイストとしてもメディアの注目を浴びるきっかけになったのは、東京・本郷の弥生美術館で2003年に開かれた展覧会。同館の学芸員で少女文化を研究する内田静枝学芸員の企画。内田氏は『田村セツコHAPPYを紡ぐイラストレーター』の編者でもある。
同書には、若いときから「すてきなおばあさん」になりたかったセツコさんが、「おばあさんのなかには元気な少女が住んでいます」と書いていることを紹介している。
セツコさんはいつでも、年齢にとらわれずに「女性」を応援したきたのだろう。
「ひとりぼっちの女の子を励ます作品を描いてきた」と言う。
それに加えて今では、ひとりぼっちのおばあさんを励ますイラストを描いているのかと訪ねると、
「いつの間にかそういう感じになっているわね。また世間とつながっちゃった」
カタカナの「カワイイ」や、まして外国人が「Kawaii」なんて使うはずもなかった時代から、女子高生やティーンが文化の中心でもなんでもない頃から少女のイラストを描き始めて、最近は「カワイイの元祖」なんて言われる存在になった。
そして超高齢社会の今、「一人で生きるおばあさん」を励ますエッセーを書いている。
この「おばあさん」は、次は何の元祖になるのだろう。
すべてのおばあさんは魔法使い
画家が老境の粋に達すると画風が変わるように、セツコさんも年輪を重ねて、作品のテーマが変化してきている。セツコさんは、すべてのおばあさんは魔法使いだという。
「おばあさんはだてにシワがあるんじゃないのよ。シワの中に経験と情報がたたみ込まれているんです。それを有効活用すれば怖いものなしよって、自分で言って笑っちゃうんですけど。おばあさんは生まれつきおばあさんじゃない。子供時代もあれば娘時代もある。色っぽい時代もある。それを忘れてしょんぼりしている人がいたら、肩に手を置いて、魔法を使ってくださいねと言いたいの」
イラストやエッセーの依頼だけでなく、講演の依頼も引きを切らない。作品で知った「田村セツコ」を直接見たい、声を聞きたいと思わせてしまう。実際、周りの人に気を使いまくり、飾らず気取らず明るい人柄は、みんなから愛されている。
芸能界にも友人知人が多く、新宿のジャズスポット「J」で毎年開かれる個展と誕生日のパーティには各界の著名人も混じった大勢の人が詰めかける。誕生パーティでは、ジャズバンドをバックに歌も披露した。
今回の取材の一環として筆者とともに、このパーティに同席した編集者の言葉が印象的だ。
「私(編集者)とカメラマンは、取材を終えてパーティを途中退席した。主賓である田村さんは、遅れてきた客の出迎えで忙しそうだったので私たちは出口で会釈して店を出た。そうしたら田村さんが追いかけてきて取材のお礼を言いに来てくれた。大事な来客を差し置いてパーティの参加者でもない取材者に挨拶に来ることもないのにと恐縮していたら、『ちょっと待って』と店に戻り来客へのプレゼントまで手渡してくれた。階段を登る私たちに最後まで手を振ってくれて」
何千人にも取材しているベテランの編集者をも驚嘆させる人間力。これを自然にやってしまうのが「田村セツコ」だ。
〝ネタ目〟で世間を見る
エッセーのネタはどうやって見つけるのか。「目玉に鉛筆が付いているような気持ちで風景を見なさいという人がいたの。絵を描く人でも文を書く人でも、そのつもりで世間を見れば、大事なものを見落とすことがないというか、何を見てもヒントになる」
セツコさんの首にはリボンを通したメモ帳代わり単語帳が掛けられている。あの小さなサイズがいいらしい。ここに落書きやら思いつきやひらめき、人が言ったいい言葉はメモする。
こういうメモや日記帳が仕事場には山積している。部屋中が巨大なメモ帳。それをぱらぱらと見れば、ネタはいくらでもある。
「ノンシャラン(無頓着)に生きていけばいいのよ」なんて言っているけど、やっぱり陰では努力しているのだ。
時代に迎合せず、自分の好きなことを続け肩肘張らない自立した生き方を貫く。自画自賛で生きるようにしている。人の評価ではなく、自分の価値観で生きるということか。
「よくあの人とは価値観が合わないって言うじゃない。合わないのが当たり前なのよ」
自分の価値観を押し通すとわがままになってしまう。だから押し通そうとはしない。
「価値観の違う人からいっぱいヒントをもらったり、自分の目が広がったりすると思うのよね。だから知らない人とお話をすることが大好き。例えばタクシーの運転手さんとかね」
タクシーでは必ず運転手に声をかけ、降りる頃には友達のようになる。
介護の母に「ケ・セラ・セラ」
先日、自宅近くの交差点で車にはねられる事故に遭った。運転手が携帯電話をかけながら運転していたことが原因だった。幸い無傷だった。事故を目撃した人は「警察に訴えなさい」と大騒ぎになったが、当人はケロッとしていた。
「また事故を起こしたらいけないから運転手さんには反省してもらわなきゃ困るけど、命拾いしたから、まっ、いいや」。
ニコニコしながら家に帰ったそうだ。
「よかったわ、私が丈夫で骨折したり、死んじゃったりしなくてね、とその運転手さんにも言ったの」と笑う。
精魂込めて描いた原稿を入れたバッグをバスの中に置き忘れたときは、「ちょうどその日に北海道でバスに岩石が落ちてきたというニュースがあったの。ああ、こんなこともあるんだから、原稿ぐらい失くしたっていいやって」
嫌なことが起っても、「事故に遭ったって、とりあえず手が無事なら絵が描ける、なんだ足も歩けるじゃないか、ラッキーって。原稿なんて失くしてもまた描けばいいんだし。そう思ったら他のことはどうでもよくなってしまう」
常々歳を取ってもうろたえない暮らしをしたいと思っている。
イラストレーター、画家、エッセイストの肩書きを持つ。数年前まで「ケアラー(介護者)でもあったわよ」とセツコさん。同居していた97歳の母親を6年間介護した。足が悪く歩けなかった。
「深夜に何度も起こされるから、ちょっと寝不足気味になってたわね」
母はほとんどベッドで寝たきりの状態だが、口の方は達者だった。
「こんなに長く生きるつもりじゃなかった、悪いこともしてないのに冗談じゃないわ、早く死にたいなんて言うから、お母さん、そんなこと自分じゃ決められないんだから、ケ・セラ・セラーーって歌があるじゃないと言ったら納得して、そうね、なるようになるわよねなんていって、あたしと一緒に歌いだしちゃった」
老後を悲観的に考える人が多い。筆者が、知人の女性が先日「歳を重ねると何もいいことはないわね」とぼやいていたがと言いかけると、「そんなことないわよ」と即座に反論された。
「面白いことがいっぱいある 。若いときにはできなかったことがたくさんできるようになります。歳を取ったら逆に楽しいことが増えてくる。経験と情報があるからね。だからヘッチャラ。多重人格者みたいにいろんな人になれる。これからはおじいさんっぽいおばあさんになりたい。これからがますます楽しみです。いいよね。楽しみね」
いつも明るく前向きなセツコさんだが、時には落ち込むこともある。そういうときは自分の中のカウンセラーが助け船を出してくれる。
「自分に意見をしてくれたり忠告してくれたりするカウンセラーがいるの。自分の中にカウンセラーを育てているの。人に頼むんじゃなく自家製。仕事をしながら、母や妹の介護で大変だったときも、あんまり落ち込まないように、気にしないように、あんまり睡眠を削らないようにと忠告してくれるアドバイザーをつくっておくの。それで働き過ぎを防いだり、飲み過ぎたりしないように自分自身にストップをかける。自分を客観視することは大切」
常にポジティブで前向き。落ち込んでいるときにセツコさんに会うと元気になるという人が多い。
セツコさんと話していると、誰もが歳を取るのを怖がらなくなる。本気で、「早くおばあさん(おじいさん)になりたい」と思えてくる。
幸せは自分の中にしかない
なんだかインタビューというよりも、社会のご意見番に生き方の手ほどきを受けるような形になってきたが、「働くということ」についても聞いてみた。今の日本では「働く」ということを考えることが、「生きる」ことを考えることでもあるからだ。
「私自身も、好きかどうかはわからないけど、締切厳守で紙と鉛筆で一生懸命絵を描いていたら、いつの間にか大好きになりました」とセツコさんは言う。
誰もが困難な事態に直面することはある。
「とにかくなんでもいいからさ、一流とか二流とか関係なく自分に与えられた仕事を一生懸命やること。世の中に値打ちのない仕事はないのよ。たまたま自分が出会った仕事をがんばって続けるのよ。嫌でも続けるのよ。そうするといつか喜びが生まれてくるのよ。不思議なんだけど、私の体験上そうなのよ」
と言いつつも本人は、「だけどね、私、あんまりプロ意識がないの。困ったもんだわ」と苦笑する。「依頼があれば締め切りを守って、期待に応えようと一生懸命にやることは確かなんだけど」と話す。依頼に対してきっちり応えるのがプロ。気が向いたときにやるのがアマチュア。「お金のことを考えるのは体に悪いから考えないようにしている」。
長く現役を維持するコツは、疲れたときは休むのではなく逆に仕事をすることだと言う。
「ジャズ・ミュージシャンの言葉。すごい痩せた人でベースマンだったんだけど、長時間のライブで他のプレイヤーは次々に変わるのに、彼だけは長時間立ったまま演奏している。終わってから、『まー大変ね、ずっと立ったまま弾いてらっしゃって』というと、『いえいえ全然、疲れないコツは仕事が教えてくれました』と言ったの。その言葉がすごい気に入っちゃって。疲れないコツは仕事が教えてくれるという言葉が、あたしの中にポーンと入ってきた」
「そうだ、仕事しよう、絵を描こうと。仕事をしないと疲れたとか、心に隙間ができる。無理にでも仕事をしているうちに、だんだんエンジンがかかってくる。お仕事のオファーがあるとうれしいわね。依頼があるうちは元気でいられる。お姫様より召使いが好きなの。上げ膳据え膳で贅沢をしていると具合悪くなるの」
東京の中心地、流行の発信地である若者の街に一人暮らし。「独居老人」と称している。「依存しない」が信条。幸せは自分でつくるもので、人に依存して手に入れるものではないからだ。何かに、あるいは誰かにしがみついていても、永遠なものは何一つない。はじめから幸せは自分の中にしかないということがわかっていれば、裏切られたと思うことはない。
「自分の中にある幸せは、どんなときでも私を助けてくれる。決して裏切ることのない宝物なんです」
仕事の打ち合わせも事務的な手続きもすべて自分が処理する。だから「脳の血管が切れそうになるぐらい」忙しい。ある人に、マネージャーをやってあげますと言われたことがある。私にマネジメントをやらせていただけたら、高級外車も別荘も全部手に入りますよ、と囁かれたが断った。運転免許がないから車は必要ないし、別荘も要らない。
道ばたでダイヤのアクセサリーを拾ったことがある。水たまりに光るモノがあり「コラージュに使えるかも」と手に取ってみると、鎖の先にダイヤモンドがきらり。近くの交番に届けたが落とし主が現れず、半年後自分のものとなった。ところが、その日の集まりで「私には合わないから」と、ダイヤモンドのアクセサリーが似合いそうな知人の女性にプレゼントしてしまった。物欲はないんですかという質問に、セツコさんはこう答える。
「ある出版社の社長の言葉なんだけど、低く暮らし、高く思う。それ、私が目指すこと。質素に暮らして、屋根裏部屋の苦学生みたいな生活が好きなんです。だからお金持ちになりたいとか、高価な宝石が欲しいとか、高級レストランで食事をしたいとか、全然思わないわけ。モノのない時代に育ったから贅沢は敵という考え方が染み込んでいる」
インタビュー当日の服は、田村さんらしい工夫にあふれ、見ている方も楽しくなる独特のファッション。スカートは黒の折りたたみ傘をばらして作ったオリジナル。「傘寿」に掛けたわけでもないのだろうが。
誕生日パーティーの会場に展示された作品にも、スターバックスの袋や道ばたに落ちていた空き缶やチラシをコラージュしたものがある。本人によれば「廃物利用」だそうである。
ダイヤモンドのアクセサリーも人にあげてしまうぐらいだから、モノに対する執着心はないが、学ぶことに対しては非常に貪欲だ。還暦を過ぎてから絵本作家・荒井良二の絵本塾に入り、若い素人の参加者たちに混じって勉強をした。学校やカルチャーセンターで学ぶことが大好きだという。映画や芝居鑑賞はもちろんのこと、学者や作家の講演会にも積極的に出かける。そうやって、元祖「カワイイ」系と呼ばれる独特の田村セツコワールドを築いてきた。
まったりとノンシャランに
体が動く限りは好きな絵を描いていたい。田村セツコファンの成長とともに大人を意識した作品も発表するようになった。
毎日のようにひらめきがある。「私、失敗すると、その瞬間はすごく落ち込むんですけど、それをトピックスととらえて、ネタになると思うと嫌なこともワクワクしてくるのよ。何かトラブルがあっても、お、そうか、そういうこともあるのかって、これはネタになるわと思う」とすぐにメモしておく。
「仕事というのはいい加減にやると面白くない。だけど最初はつまらなさそうな仕事だと思っても、熱中して一生懸命やるとだんだん面白くなるのよ。これ大事なことね。自分を乗せて仕事を遊びにする。その境地になればしめしめよね」
後期高齢者(嫌な言葉だな)と呼ばれる年齢になったが、すこぶる元気だ。いまも年に数回、青山や新宿のギャラリーで個展を開いている。絵の仕事に取り組む傍らシニア雑誌や婦人雑誌にエッセーを執筆している。池袋のコミュニティ・カレッジで絵画講座の講師をし、描くことが好きな人たちとのコミュニケーションを楽しんでいる。大忙しだ。
「倒れちゃうんじゃないかと心配になるぐらいね」とぼやきながらも元気だ。ノンシャランに、軽やかなノリで毎日を過ごしている。
ある日、東京・町田市の実家へ久しぶりに帰ったとき、背広を着た二人の男性が訪れた。市役所の職員で「健康保険証をお使いになっていないので」と心配になって見に来た。
「生存確認にきたわけね」とケラケラ笑う。
先日も小料理屋の階段から転げ落ち、腕に大けがを負ったが医者にも行かず、手ぬぐいを撒いて出血を止めただけで治してしまった。
人を元気づけるのがうまい。個人的なことだが先日、体の調子が悪くなり、病院で検査を受けた。その結果が出るまでの間ちょっと落ち込んでいた。そこへ「アミーゴ!」と明るい声で田村さんから電話が入った。私もスペイン語で挨拶を返すと、
「全然悪い病気じゃない。私、声で分かるのよ。大宮さんの声は心配ない。先生が何と言ったか知らないけど、大丈夫よ、ダイジョーブ。人間には自然治癒力があるんだから」
共通の友人から聞いたらしく、心配になって電話をくれたのだ。「もうすぐ元気になるわ。そしたらまたみんなで飲みに行こうね」と言って電話を切った。
田村さんの明るい声を聞いたら、すっかり心が軽くなってしまった。母親がケガをした子供に「痛いの痛いの、飛んでけ-」とおまじないを掛けてくれると、本当に痛みが和らぐように、田村さんの「大丈夫」という言葉はお母さんのおまじないみたいだ。こちらが落ち込んいるときにタイミングよく電話をくれることが、2、3度あった。その度に励まされることは言うまでもない。私にとって田村さんは「魔法使い」である。
歳を取ってもうろたえない暮らしをしたいという。
「肩肘を張らずに自立する。というと難しいけど、要するに人に依存しない、甘ったれないということね」
どこにも所属せず自分の好きな絵を描いて生活をする。女性が一人でフリーランスの仕事を長く続ける秘訣を聞いた。セツコさんは明るく笑いながら言った。
「まったりと生きていけばいいのよ、まったりとね」
まったりとは、味わいがまろやかで、こくのある料理を表現する京都弁。明るく前向きで好奇心旺盛。ご自身が構築したセツコワールドの「HAPPYおばあさん」そのもの。おばあさんと少女が仲良く同居しているような不思議な存在。セツコさんの「まったり」とした魅力をそのイラストやエッセーで、多くの人に味わってもらいたい。
掲載:2018年3月
田村セツコ/画家、イラストレーター、エッセイスト
1938年、東京都生まれ。高校卒業後、銀行の秘書室に勤務。1年で退職後、童画家・松本かつぢ氏の紹介でイラストレーターの道に。1950年代後半のデビュー後、60年代には『りぼん』『なかよし』『マーガレット』『少女クラブ』など少女誌の表紙やイラストを多数手掛け、女性イラストレーターのパイオニアとして一躍人気作家に。
「カワイイ」が好きな若い女性の憧れであり、ストーリーのある漫画や挿絵ではなく、文章とイラストを組み合わせた独自のセツコワールドを築き上げた。70年代は便箋や小物などのセツコグッズで一世を風靡した。
サンリオが発行している「いちご新聞」では、75年の創刊から連載エッセイを継続中。『おちゃめな生活』(河出書房新社)『カワイイおばあさんの「ひらめきノート」』(洋泉社)、『おしゃれなおばあさんになる本』(興陽館)など著書多数。池袋コミュニティ・カレッジでは、“絵日記を描いてハッピーに”をテーマに講師を務めている。年に数回、ゲストを招いたトークショー「ようこそ!セツコの部屋へ」も開催。オフィシャルブログ「ハッピーセツコ」
取材・執筆:大宮知信/ノンフィクション・ライター
1948年茨城県生まれ。中学卒業後、東京下町のネジ販売会社に集団就職。その後、調理師見習い、ギター流し、地方紙・業界紙・週刊誌記者など20数回の転職を繰り返し、現在に至る。政治、教育、移民、芸術、社会問題など幅広い分野で取材・執筆活動を続ける。海外へ渡った日系移民に強い関心を持つとともに、スペインをこよなく愛し、趣味はフラメンコギター。
著書は『さよなら、東大』(文藝春秋)、『世紀末ニッポンの官僚たち』(三一書房)、『デカセーギ 逆流する日系ブラジル人』(草思社)、『お騒がせ贋作事件簿』(草思社)、『スキャンダル戦後美術史』(平凡社新書)、『ウチの社長は外国人』(祥伝社新書)、『「金の卵」転職流浪記』(ポプラ社)、『お父さん! これが定年後の落とし穴』(講談社)、『部長が中国から来たらどうしよう』(徳間書店)、『平山郁夫の真実』(新講社)、『死ぬのにいくらかかるか!』(祥伝社)、『人生一度きり!50歳からの転身力』(電波社)など多数。
撮影:樋宮純一(クレジット記載、および特記なき写真すべて)
取材・構成:石原智
取材サポート:王麗華