2019年冬の晴れた土曜日。千葉県柏市のショッピングモールの屋上バスケットコートで、小学生の子どもたちがボールを追いかけていた。バスケットボールスクールに所属する子どもたちだ。晴天といえども冬の屋外。見ているだけの大人には冷たい空気。しかし、コートの中の子どもたちは皆、目を輝かせながら全力で駆け回っている。
「ナイス・チャレンジ!」「いいよ、いいよ、その調子!」
シュートを狙った男の子に向かって、こんな声がコートに響く。声の主は、この日サポートコーチとして子どもたちを指導しる諏訪裕美さん。Wリーグ(バスケットボール女子日本リーグ)で頂点を極め、日本代表としても活躍したトップアスリートの一人だ。
葛藤を抱えながらも闘い続けてきた濃密な現役時代、そして、引退後に渡ったアメリカで出会ったスポーツの新しい価値観。こうしたさまざまな経験を経て諏訪さんはいま、「勝つためのバスケット」から距離を置き、「楽しむためのバスケット」の指導者としての道を歩み始めようとしている。
プロフィール:諏訪 裕美(すわ ひろみ)
1985年12月5日、大阪府生まれ。身長183cm、現役時代のポジションはセンター。
2000年~ 桜花学園高等学校(名古屋市)で数多くの全国タイトルを獲得。
2003年~ JXサンフラワーズ(現JX-ENEOSサンフラワーズ)在籍中にWリーグ4回、天皇杯4回日本一を経験。 新人王、ベスト5、フリースロー、フィールドゴールなどの個人タイトル獲得。 アジア競技大会2回出場。世界選手権10位。
2011年~ 世界選手権後、怪我の悪化により現役引退。その後、1年母校桜花学園でコーチとして指導。
2012年~ コーチを務めながら腰のリハビリに通い、アイシン・エィ・ダブリュ ウィングスにて現役復帰して3年間在籍中に、アジア競技大会に再度出場。
2015年~ 現役引退。再度母校桜花学園で1年間コーチをした後、語学留学のため1年間シアトルへ。
2018年~ アメリカで結婚。生活拠点を日本に移し、バスケスクールの助手や中学校の外部指導者としてバスケットの指導に携わる。
バスケ名門高入学で知った、実力差
大阪府出身の諏訪さんがバスケットボールを始めたのは小学4年生の時のこと。柏市の屋上でボールを追いかけていた子どもたちと同じ頃だ。友だちからミニバスケットに誘われたのがきっかけだった。
「すぐに熱中しました。友だちと一緒にボールを追いかけるのが、ただただ楽しかった。そして、そのまま中学になっても部活に入ってバスケットを続けたんです」
諏訪さんが通った中学校の部活は強豪ではなく、府の大会にも出場できないレベルだった。しかし、成長期に入り身長が伸びた諏訪さんのプレイは注目を集め、大阪府の選抜選手に選ばれる。そんな諏訪さんに、女子バスケットボールの名門校として知られる名古屋の桜花学園高等学校から声がかかった。
「とても迷いました。実は中学生の時は体育の先生になるのが目標で、勉強にも打ち込んでいたんです。でも、悩んだ末に『全国大会に出てみたい』と両親に告げて桜花学園に進学することに決めました」
そして、ここから諏訪さんのバスケットボール一筋の人生が始まることになる。
「桜花学園に入学してみると、いままでとはまったくレベルが違っていました。周りは全国レベルの選手ばかり。私はバスケット用語もわからなければ、先生の言っていることの意味がわからない。その上、初めて親元を離れての生活だったので、『来るところを間違えた』と思いましたね(笑)」
桜花学園高等学校に入学した当初のことを、諏訪さんはこんな風に振り返る。
同校は全国優勝60回以上を誇り、高校バスケ界の「女王」とも評される強豪である。同校を常勝校へと導いた井上眞一監督は名将として知られ、2018年にその指導法をまとめた『日本最高峰のバスケ学 桜花流・上達論』(東邦出版)という書籍を上梓して話題を呼んだ。諏訪さんは、この井上監督から徹底して鍛えられた。
「3年間、誰よりも怒られた」と諏訪さんが言うように、井上監督からはひたすら細かな指導を受けた。ドリブルをすれば「そのドリブルは何のためだ」と練習を止めて注意が飛ぶ。練習が再開するとすぐに「今の足の角度がおかしい」とチェックが入る。
負けず嫌いの諏訪さんは反発し続けながらも、必死で食らいついていった。もっとも、どれだけ練習が厳しくても逃げ出したいと思ったことは一度もないという。それは厳しいのは練習中だけで、寮に帰ると井上監督は父親であり、何でも話せる存在だったからだ。
結果としてこの厳しい練習は諏訪さんの力を大きく伸ばすこととなり、諏訪さんが3年時にはウィンターカップ、国体、インターハイすべてに全国優勝という3冠を達成する。
「今の私があるのは、井上先生のおかげです。いま指導者として私が教えていることのベースは、すべて井上先生に教わったことです。また、私のその後のバスケットボール人生で転機を迎えた時も、いつも助けてくださいました。その意味では、まさに私にとっての恩師です」
ポジションを奪われるも、強みを磨き、日本一の栄冠をつかむ
桜花学園高等学校卒業後は、千葉県柏市に本拠を置くJXサンフラワーズ(現JX-ENEOSサンフラワーズ)に入団する。同チームは、全国実業団女子チーム最多の全国タイトル獲得を誇り、「絶対王者」とも呼ばれる常勝軍団である。
ここでも諏訪さんは懸命な闘いを続けた。1シーズン目から主力として活躍し、在籍中はWリーグ4回、天皇杯4回の日本一に輝く。また、新人王、ベスト5、フリースロー、フィールドゴールなどの個人タイトルも獲得。さらに憧れていた日本代表にも選出され、アジア大会や世界選手権への出場も果たす。しかし、その道のりは決して順風満帆なものではなかった。
「1年目からレギュラーになれたのは、アテネ五輪後で主力が引退したからです。その後、4年間は日本一にはなれず、途中でチームが同じセンターに190cmを超える選手を移籍で獲得したため、私はスタートポジションを奪われました。5年目で日本一になったのですが、その時はベンチから優勝を見届け、心から喜ぶことはできませんでした」
こうした状況の中、諏訪さんはひたすら個人練習に取り組んだ。今までは長身を生かしたプレイスタイルだったが、それでは自分より身長が10cmも高いライバルには勝てない。そこでライバルにはない武器を磨いた。スピードである。ラリーで勝負するための俊敏な動きと判断力を磨いたのだ。実はアジア大会などに出場すると周りは自分より身長の高い選手が多く、プレイスタイルを変える必要性を痛感していた。世界大会で活躍するためにも、同じチームにいる高身長のライバルとマッチアップすることはいい練習になると、走るスピードを磨いた。実際、その練習の成果は大きく、ライバルの選手と交代して諏訪さんがコートに入ると、チームのスピードが目に見えて変わるほどだったという。そして、レギュラーのポジションを奪い返した諏訪さんは、6年目に再び日本一を獲得する。この時の優勝は別格だった。
疲弊し、バスケへの情熱を失った日々も
しかし、チームを牽引し、日本代表として戦う日々は、諏訪さんに大きなダメージをもたらした。腰の怪我が悪化し、現役引退を余儀なくされる。
「もうバスケットは辞めようと思いました。身体よりも精神的に辛くなったんです。バスケットが嫌いになったのが悲しかった」
諏訪さんが26歳の時のことだ。アスリートとしてはフィジカル的にもメンタル的にも最も充実した時期だが、諏訪さんはその両面で疲弊し切っていた。高校卒業後すぐに実業団に入りバスケ一筋。「普通の社会人経験はなく、何もできない」と思い、とりあえず実家に帰った。
そんな時に声を掛けてくれたのが、恩師である桜花学園高等学校の井上先生だった。「何もすることがないなら、コーチとしてうちの高校の指導を手伝え」。もうバスケットに関わる意思がなかった諏訪さんは当初は断っていたが、「次の仕事へのつなぎでもいい」という再三のアドバイスにしたがって名古屋へ赴く。そこで、諏訪さんの心境に変化が生じる。
「高校生たちが純粋に頑張っている姿を見て、初心に返ったと言えばいいでしょうか。実業団時代は給与を支給されてバスケットに取り組んでいたのですが、この子たちは誰にも求められていないのに、ただ純粋に未来を見ている。その姿を見て元気をもらったのです」
そこで、再び現役復帰を決意する。所属したチームは、アイシン・エィ・ダブリュ ウィングス。Wリーグの下位チームだったが、「下の子に経験を伝えてほしい」と望まれたのが決め手となった。そして、諏訪さんはここで再びバスケットボールの楽しさを味わった。
「みんなで頑張るのが楽しく、何より後輩たちが可愛くて仕方なかったですし、彼女たちが成長していく姿を見るのが嬉しかったですね」
自身の扉を開くために、アメリカへ留学
完全燃焼した諏訪さんが2度目の引退を決めたのは30歳。そして、セカンドキャリアとして踏み出した新たな一歩は意外なものだった。
「今までバスケットしかしてこなかったので、自分の好きなことをしてみようと思ったんです。以前から海外遠征に行った時に英語が話せればいいなと思っていたので、語学留学をしようと決めました。行く先はアメリカで、できれば各地の大学を訪れて本場のバスケットに触れてみたいとも考えました」
この決断には周囲も驚いたという。両親の心配は大きく、友人も「何を考えているんだ」という反応だった。実は実業団からコーチとして招聘したいという話もあったが、そこに行くとバスケットしか知らない人生になってしまう。もっと違う世界を見てみたい。そう考え、先のことは深く考えずに何とかなるだろうと留学したのだという。そして、1年間再び井上先生の元でコーチをしながら準備を進め、諏訪さんはアメリカへと渡る。まったく英語が話せなかったため、何をするにも人の倍の時間がかかったが、それでもアメリカでの体験は、諏訪さんにとってはこの上なく刺激的で多くのものを与えてくれた。
例えば、自己アピールするアメリカ独自の文化。ここで自身の経歴を積極的に話すことができ、初めて自分の歩んできた道を肯定的に捉えることができたという。今までは人に会っても「バスケットをやってきました」という程度で自信を持って話すことができなかったという。語学学校でサウジアラビアやブラジルの友人もでき、また、知り合いと火曜と土曜の夜にバスケットを楽しむ機会も得た。
さらに、シアトルではパートナーとともに暮らし、1年後の2018年4月にはアメリカで入籍する。相手の方は、日本とアメリカそれぞれのルーツの両親を持つ公認会計士として金融の仕事に携わっている。
「アメリカに渡る前に、後輩から私のFacebookを見て会いたいという人がいると連絡を受けたのが、出会ったきっかけです。会ってみると、私がバスケットの選手だったことはまったく知りませんでした。今まで私は誰とお会いしても『諏訪選手』として接していたのですが、彼とは素の自分で付き合うことができました」
アメリカで体験したバスケットの新たな指導法
アメリカでの体験は、バスケットへの考え方や価値観にも大きな変化をもたらした。
「シアトルでキッズのバスケットクラスを見に行ったことがあるんです。そこでは、ほめてほめて指導する方法でした。子どもたちもやりたいことを主張し、お互い話し合いながらバスケットを楽しむ光景に驚きました」
実はJXサンフラワーズ時代に、諏訪さんはこうしたコーチングを体験している。それは、トム・ホーバス(現女子日本代表ヘッドコーチ)とトーマス・ウィスマン(現横浜ビー・コルセアーズヘッドコーチ)というアメリカ出身のバスケットボール指導者からだった。この2名のコーチは、諏訪さんが「私はこれができない」「ここがだめだ」と言うたびに、「できるよ」「必ずやれるはず」というポジティブな言葉をかけ続けた。ちょっとしたことでも「いいよ、いいよ」と褒めてくれ、「こんなに上手なのに、なぜ自分で道を閉ざすんだ」、こんなニュアンスのアドバイスも多かったという。
「こうした体験が、私のいまの指導の基本的な考え方になっています。井上先生から教わったファンダメンタルは大事にしながらも、そこに『否定』はいらない。できた子には『いいよ』と言う言葉を、できなくても『それでもいいんだよ』と話しかけます。決して『ダメ』とは言わない。シュートを打ちたいと思えば打てばいいし、でも、『入らなければ楽しくないから練習しようね』、そんな風な指導を心がけています」
日本で指導者としての道を歩み始める
2018年7月、諏訪さんはご主人の日本転勤に伴い、日本に戻った。その後、昔からの知り合いでWリーグなどで活躍した森本由樹さんの活動を知り、彼女が所属するGlobal9の仕事を手伝うことになる。Global9は、スポーツを通じてグローバルな教育のサポート、スポーツ選手の「セカンドキャリア」などを目指す会社で、フットサルやバスケットボールのスクール事業を展開している。諏訪さんはいま、このGlobal9を通して柏市でのバスケットボールスクールや、都内の中学校のバスケット部のコーチをしている。
「勝つためのバスケットではなく、楽しいバスケットを指導していきたいですね。とにかく、バスケットが楽しいと思う子どもたちを増やしていきたい。ただ、一人ひとりの子どもの性格や個性を理解した指導を行うには、もう少し時間とスキルが必要だと思っています。また、楽しくするためにはどう練習を工夫すればいいか。ある程度楽しむためには基礎も必要ですし、それを身につけるためには忍耐も求められます。そのあたりは、今後の課題ですし、そうしたテーマを持って指導者として勉強を続けていきたいと思っています」
アメリカ式の指導法をベースにはしているが、その真似をすればいいわけではない。現代の子どもたちの特徴や置かれた環境、日本人のメンタリティなどを考慮した指導スタイルも模索している。諏訪さんはバスケットの醍醐味のひとつは団体競技という点にあると言う。一人で行う競技ではないからこそ、「周りで教え合う」「みんなが励ましてあげる」雰囲気をつくりたいとも語る。
諏訪さんはインタビュー中に「仲間への感謝」という言葉を度々口にする。苦しかった実業団時代でも「仲間に支えられ、仲間には感謝しかない」と。仲間はもちろん、指導者との出会いも含め、さまざまな人とのつながりや絆。これこそが諏訪さんが次世代に伝えたい価値であり、いまの諏訪さんの支えとなっている。
Bリーグの開設もあり、日本におけるバスケットの人気は高まりつつある。しかし、まだまだバスケットボール文化が定着したとは言えないだろう。これからさらに日本にバスケットというスポーツを根付かせるには、子どもたちへの指導や幅広く社会への普及が欠かせない。始まったばかりの諏訪さんのセカンドキャリアは、これからの日本のバスケット界においても重要な役割を担っていくことになるはずだ。
information
2019年3月25から27日、子どもとおでかけ情報サイト「いこーよ」を運営するアクトインディによる「第3回『やってみたい』を実現! 10種から選べるスポーツ合宿in山中湖」が開催される。小学1年生から6年生までの80人が参加し、陸上、サッカー、テニス、卓球、水泳、野球、バレーボール、バドミントン、バスケットボール、ダンスの10種の中から4種を選択し、それぞれ一流のコーチの指導を受けながら、スポーツ体験ができる。
諏訪さんはバスケットボールのコーチとして、この合宿に参加する。
「いろんなスポーツに取り組めるのが、このイベントの素晴らしいところだと思います。実は私も今さらですが、さまざまなスポーツを体験したいと思っています(笑)。アメリカの子どもたちはシーズンごとに3~4つのスポーツを楽しみますが、とても良いことだと思います。いろんな体験ができ、いろんな考え方を学ぶことができるかたです。バスケットボールもそのスポーツのひとつとして楽しんでもらい、バスケットが好きな人が増えていけばいいなと思っています」(諏訪裕美)
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取材・執筆:岡田陽示
信州大学人文学部比較文化論学科卒業。株式会社日本PRシステムズ(コピーライター)、株式会社日本コンサルタントグループ(編集・ディレクター)を経て独立。企業・団体の広報メディアから編集制作物、広告まで幅広い分野において企画・取材・編集・コピーライティング業務に携わる。近年は陶芸作家の取材(『陶工房』誠文堂新光社)にも精力的に取り組む。
撮影:樋宮純一/フォトグラファー
長野県生まれ。第一企画 写真部などを経て独立。人物から建築、料理、商品まで幅広く撮影を手がける。
取材・編集/石原智(次世代価値コンソーシアム)
掲載:2019年2月5日