アートは教えられるか?~子どもへの芸術教育 PART2~音楽教育の視点から

連載「アートは教えられるか?~子どもへの芸術教育」の PART2。前回の「図画工作」教育に続いて、今回は「音楽」教育。日本体育大学で幼稚園・小学校教諭を目指す学生に音楽教育を指導する中島龍一准教授に、PART1の著者である同大の平本和博非常勤講師が話を聞いた。
「アートは教えられるか?~子どもへの芸術教育 PART1~ 幼児・児童教職過程の授業から見える「図画工作」が好きな子どもの育て方」はこちら

中島龍一准教授

 

中島 龍一(なかじま りゅういち)
日本体育大学児童スポーツ教育学部准教授
武蔵野音楽大学大学院音楽研究科ピアノ専攻修了 芸術学修士
ピアノを松山淳子、R.Cavaye、市田儀一郎の諸氏に師事。リサイタル、トークコンサート等を開催する傍ら、バレエピアニストとしても活動し、ジャンルにこだわらない幅広い演奏活動を展開。特にオーケストラ作品等をピアノソロ用に易しく編曲した「ドラゴンシリーズ」(共同音楽出版社)は32巻刊行され、なお続刊予定である。子どもの音楽教育や表現に関する研究や、障害のある子どもと音楽の関係に関する研究も行なっている。
所属学会:全国大学音楽教育学会[日本学術会議協力学術研究団体]、日本音楽教育学会
主な著書:『やさしいアレンジで表現力アップ!! 「ピアノ小品・名曲集」』 『やさしい伴奏で保育力アップ!! 「いっしょにうたおう子どもの歌」』 (両著とも共同音楽出版社)など

聞き手:平本 和博/日本体育大学児童スポーツ教育学部非常勤講師

平本和博講師(左)

美術や音楽への自己評価の低い学生たち

平本和博非常勤講師(以下、平本): 私はデザインの仕事を行ってきた関係で、周りに造形や美術に無関心な人はいなかったのですが、日体大の非常勤講師として幼稚園・小学校の教員を目指す学生に図画工作を教えることになって、これほどまでに絵を描くことやものを作ることが苦手だ、嫌いだという学生が多いことに驚かされました。そのことを学生に聞いてみると、「私は絵が下手だから」とか、「小さい頃に親や教師に褒められたことがない」などの経験を語ってくれました。このような経験を持った学生が、小学校なり、幼稚園なりの現場に立って図画工作を教えることになると、どのようなことになるか心配になります。実際に現場に立てば、それなりに対応していけるのでしょうが、正直教師とは大変な仕事だと思いました。
また図画工作ではあまり良い体験を持たなかった学生相手に授業を受け持つことの難しさを感じました。彼らがどうしたら図画工作が好きになれるか、という思いでこれまで授業を進めてきましたが、私の授業と音楽の授業には共通項があるのではないかと思いお聞きするのですが、中島先生の場合はいかがでしょうか。

中島龍一准教授(以下、中島): 私も演奏活動を行いながら教育の場で音楽を教えてきました。そうした中で子どもの音楽教育が大切だと教えてくださった先生がいました。それまでは、子どもに音楽を教える仕事を軽視していましたが、その先生の言葉を聞いて子どもの音楽教育を真剣に考えてみる必要を感じました。懸命に勉強しているさなかに日体大の非常勤として、教育者を育てる仕事に携わることになりました。
好奇心は強いが知識を持たない子どもと触れあったとき、自分がベートーベンなど著名な作曲家たちの曲を演奏するよりも新鮮さを感じました。この経験をきっかけにピアノ曲、ヴァイオリン曲などと決めつけず、幅広いジャンルのものを音楽として取り入られるようになりました。
先ほどの質問ですが、残念ながら音楽も図画工作と同様「音楽が苦手」という意識のある学生が多いです。音楽には、楽器演奏・歌・身体表現などさまざまなジャンルがあります。その中のどれかが「好き」であれば良いと思いますし、それが大切と考えています。好きである前に、「○○ができなければいけない」「○○が上手にできないと使いものにならない」という意識が幼・小・中・高という教育機関の中で育ってしまっている部分があるのではないかと思います。

平本: 私の場合は大先輩の先生から子どもに描くことやつくることを教える時は、一緒に遊ぶという気持ちで接しなさいと言われました。子どもたちは遊びを通して学んでいくのです。非常勤を引き受けた当初は図画工作を教える気持ちでいたのですが、いまは描くことつくることの楽しさを覚えてもらうことに切り替えました。
どうも図画工作が苦手と思う学生は、自分は絵が下手だと考える学生が多い。

中島: やはり同じように「ピアノが下手だから」「歌が下手だから」という学生が多いです。「好き」ということが先に来ない場合が多いです。そこの意識を変えていかないといけないと考えています。
かつて恩師が私に「きみは音楽で遊んだことがある?」と尋ねました。それまでは、音楽は勉強するもので、あまり遊ぶという考えはなかったので恩師の一言が刺激になりましたね。造形でも音楽でもすべて遊びの一環なんですね。子どもの頃、遊んだ経験がないまま育ってしまうと何か一つに固執した教え方しか出来なくなる。私も学生たちを教えるようになってからは自分の価値観を押しつけるのではなく、ひとりひとりの個性を伸ばすように考えています。

教え方の自由、学び方の自由を

平本: いまもまだ型にはめる教育が多いですね。絵を描くことで言えば、このように描きなさいと型にはめては絵をつまらないものにしてしまう。音楽がポップスからクラッシックまで多様にあるように、美術もアメリカンPOPから抽象的なもの、写実的なものと幅広く存在します。いろいろな絵があり、いろいろな描き手がいて多様な表現があるから美術は楽しいのだ思います。表現手段が大きく変わっていくのに、なぜ教育の現場は変わらないのですかね?

中島: 私もピアノを習ってきた時に、先生の言う通り、やる通りに弾きなさいと教えることが当たり前の環境でした。それでは自分でこのように弾きたいというような考える力がなくなっていきます。一方、子どもたちの発想力は豊かで思いもよらないことをやってしまう。そのような子どもたちを指導するときに、このように弾きなさい、このように楽器を使いなさいと教えてしまうよりも、自由に行わせる中で個性を見いだすことが大切だと思います。

平本: 私も個々の良いところを引き出す努力をしているのですが、その中でいろいろな表現が出てくるとうれしくなりますね。

大学で教育・研究と共に、演奏家としても活躍する

中島: 大学の教職過程の授業で初めてピアノに触れるという学生もいます。先日ピアノを教えていたときにある学生が、「先生が弾くときの指の動きをスマホ動画に撮らせてください」と言ってきました。その学生は楽譜を見るよりも動画を見ながら演奏を覚えると言うことですが、私には思いもつかない発想でした。90%以上の先生方は反対なさると思いますが、私は楽器に触れる喜びを感じてくれるきっかけになるならばそれで良いかと思い許可しました。その学生は楽しそうに授業を受けていました。
ただし、ルールはしっかりと教える必要があると思います。ただ、ルールを先に教えるのではなく、自由にやらせる中でルールを教える方法が「個」を理解するためには良いと思っています。打楽器を叩くときに「こう持って、こう叩いて……」という指導をされる先生が多いです。そうではなくて、先ず、「色々な叩き方で音を出してみよう!」という導入法の方が興味を持ち、楽しんで入っていけると思います。

平本: さまざまなアプローチを自分自身で考え、習得していくことが大切ですね。そのことが創造性に結びついていくのでしょうね。絵画の場合、こう描かなければならない、こうしなければならないなどのメソッドはありません。独自の方法でアプローチする姿勢が大切なのかも知れませんね。音楽の場合のメソッドはありますか?

中島: 音楽の場合は一応ルールが存在しますが、ただそのルールも徐々に形骸化してきています。長い歴史の中で音楽も閉塞感が漂っています。いまあるルールのようなものをどこかで打ち破って行かなければ新しいものは生まれてきません。いろいろな視点から音楽を見ることがこれからの時代には求められますし、とくに小さい子どもたちを教える場合、私たちも彼らの感情をも受け止め、柔軟性を持って接していかなければいけないと思います。

インタビューは日体大の音楽教室にて

失敗を恐れない、人と比較しない

平本: 教師の側で、子どもたちの考える力を奪ってはいけませんね。

中島: 失敗をしない教育が根付いてしまったのだと思います。工夫して考えながら創り出していくためには、やはり失敗は必要です。いまは教わる方も教える方も失敗してはいけないと考える人が多いのかなと思います。失敗を恐れるよりもやってみたらどうなのかの方が大切です。学生のうちは失敗など恐れることはないのですが。

平本: いまは社会全体が失敗を許さないという雰囲気がありますね。一度失敗したらすべてを失うような風潮が感じられます。失敗を恐れる社会は進歩がありませんね。

中島: 失敗を恐れると同時に人と比較しすぎるのではないかと思います。音楽授業で言えばあの人はあのようにピアノを弾けるなどと自分と他人とを比較する。何でも良いから自分の長所を出せば良いのですが、何か固定概念に固まり縮こまっているように見られます。たぶん、小、中、高という教育の中で身についたものではないかと思います。教育の場だけでなく家庭も同様です。あの子はピアノを習っているので我が子にも習わせようと考える親が多い。社会がそうなのかも知れませんが、考え方が横並び思考です。ちょっと変わったことがしたいのだけどなかなかできない。

平本: どうもこの社会は異物を嫌うという風潮がありますね。既に子どもの頃から始まっていますね。話は変わりますが、先日新聞で欧米ではビジネスにとって美術の教養は必須だったが、最近では教養ではなく美術的な発想をビジネスに活かす時代になったと述べていました。多分、美術で磨いた感性を持つことによって、ファジーだけれども突飛な発想が出来る人が求められているのでしょうね。音楽でも同じようなことが言えるのではないですか?

ジャンルを超えた「表現教育」の必要性

中島: 図画工作も音楽も感性を磨く教育です。街中音楽はあふれているので、教える側も受ける側もとにかく楽しんであらゆるものを聴いて欲しいですね。小学校の場合はやらなくてはならない音楽のことが規定されているのですが、「いろいろな絵を見ること・ジャンルにこだわらず音楽を聴くこと」が感性を磨くことになると思います。また音楽だけにこだわらず、他の分野のことも知って欲しい。その意味で「自然を見て触って感じる」「自分が美しいと感じるものを見つける」で、この3点は大切なことだと伝えています。
「となりのトトロ」の中に『さんぽ』と言う有名な曲があるのですが、その中にはヘビやトカゲなど嫌われ者の生き物が出てきたりします。私たちは音楽のことだけを教えるのではなく、その背景にあるいろいろな知識を身につけることによってより深く理解できます。言葉とか身体表現、造形などが組み合わさっているものが音楽なのかも知れません。
日本人は「音楽を学ぶ」という感覚よりも「ピアノを」「ヴァイオリンを」といった分類された一つに固執しすぎるのではないかと思います。

平本: その意味では、いま必要なのは音楽、美術、身体表現などを横断した授業が必要なのかも知れませんね。歴史的に見ても美術も音楽もまた哲学、文学など同じ発想の表現が同時期に生まれてきます。美術で言えば「遠近法」の成り立ちを見れば、社会の中で表現はみな繋がっていることがよくわかります。あらゆるジャンルの知識を身につけることでまた美術や音楽の世界をより深く理解できるようになるのでしょう。

中島: 私も音楽を教えていて美術的なことは避けては通れません。音楽だから美術だからと別個に考えるのではなくすべての表現を一体として捉えた方が自然だと思います。また一つのことを行うために、さまざまな人が関わってつくり上げることも大切なことです。いまは楽器を弾く時間、歌の時間と別々にあり、それらが合わさった学びはされていないのが現状です。幼稚園の頃、絵を描くことや音楽が好きだった、踊ることが好きだった子が、小学校の過程の中でそれがだんだんなくなっていく現状があります。それで中・高となって絵が下手だから、歌がうまくないからと感性を養う教育から離れていってしまう。

平本: 幼稚園の頃は、「みんなで劇をやりましょう」、「○○会をやりましょう」と音楽もお絵かきもダンスもすべて生活の一環として行われていました。個人で行うものもあれば共同作業もあるなど、さまざまな制作要素が混じり合っているからみな楽しく一生懸命行います。
しかし、小学校になると図画工作、音楽、体育と教育が専門化してきます。専門的になると教える側の知識や技量、そして子どもへの理解度などが問われます。時代にそぐわない造形理論や技量へのこだわりが子どもたちを画一化し、個性を奪い取っていくのではないでしょうか。

中島 音楽も全く同じですね。米国では既にグループ毎に、例えばミュージカルをつくるなどと言った授業が存在します。しかしながら、日本ではいまはこのような授業は受け入れられていませんね。私たちも音楽だけではなく、表現と言う授業を立ち上げようとしていますが、まだ統一した意見にはなってはいません。意識改革の第一歩を踏み出せたと言うことでは良いことだと思います。

中島准教授は学習者用の書籍なども多数執筆している

平本: では最後に音楽教育で大切なもの、学生に伝えたいものをお話しして頂ければと思います。

中島: どんな形でもいいと思います。とにかく、音楽の素晴らしさを自身が体験することだと思います。自身にそれがないと教育に結びつけることはできません。
現場では、自分の体験を学生や子どもに話し、共有することから始まるものだと考えています。例えば、歌うときでも、自分が最初にこの歌を歌った時の思いやそれにまつわる話をすると、ただ歌うだけではなく、相手の感じ方や受け入れ方が全然変わって来ます。
伝えたいことをまとめると次の3つになります。

①音楽は素晴らしいもの!存分に楽しんでほしい
②音楽を通して色々な分野に興味を持ってほしい
③相手の「個」を見つめてほしい

 

→アートは教えられるか?~子どもへの芸術教育 PART1~ 幼児・児童教職過程の授業から見える「図画工作」が好きな子どもの育て方

取材後記:美術教育や音楽教育は大切だと考える人たちは多いが、それが学校教育の中で重視されているとは言えない。美術や音楽などの芸術教育は主要科目ではない、「教養科目」と考えられている。これらの芸術系の科目は感性を育み、情緒を豊かにするからと唱えても何も証明する尺度がない。要はペーパーテストで点数をつけにくい。知識として吸収する主要科目と違い、芸術系の科目は体感として身についていくからだ。だからこそ一旦身体が覚えた経験は、長く個人の中に残っていく。それゆえ、子ども時代から広く芸術に触れることが重要なわけだ。
しかしながら、多くの人は、「図画工作」「音楽」「美術」といった学校教育の「授業科目」の中だけでしか芸術を体系的に体感する機会がない。
もちろん習い事としてのピアノなどは普及しているが、それが今回の対談で話したような自由に芸術を体験する場とは言いにくい。
アートは芸術家だけのものではない。だからこそ学校教育の中で「教養」として学ぶ。しかし、前回の寄稿と今回の対談でお伝えしたように、それだけでは十分ではない。学校教育でできることには限界がある。学校教育や従来の習い事の枠組みを超えた、新たなアートとの触れ合いの場の創出が必要だと考える。絵を描く、ものを作る、歌う、楽器を演奏する、踊る、演じるなど、様々な表現活動を身近に体験できる場。子どもはもちろん、大人、高齢者に到るまで様々な層に対して。
家庭でもない、学校(職場)でもない第三の場としての「サードプレース」が、社会的にも個々人にとっても必要だと言われ始めている。芸術教育やアートに触れる場としてのサードプレースが増えることが、私達の社会を豊かにするのではないか。(平本和博)

撮影:樋宮純一/フォトグラファー

取材・編集:石原智/(一社)次世代価値コンソーシアム

2018年10月5日掲載

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